中部眼鏡卸協同組合は、最盛期には愛知、岐阜、静岡の卸企業18社が加盟していた。しかしそもそも中部地区における眼鏡業界の歴史は、東京や大阪など他の大都市に比べ、比較的浅い。
この地域で眼鏡卸が始まったのは、明治31年に創業した河内屋、そしてそれからやや遅れ、明治38年に創業した末広屋(現横江眼鏡)からと思われる。
雨具の製造卸・河内屋に奉公していた内藤鶴吉氏は、明治31年暖簾分けにより独立。その屋号を引き継ぎつつ、中区末広町1丁目に、度量衡や老眼鏡等を扱う卸商社河内屋を創業した。
大正4年、中区末広町から西区志摩町への移転を機に、河内屋は2代目内藤景治氏に引き継がれ、眼鏡卸としての地盤を確固たるものとした。その後3代目となる内藤泰雄氏(=写真)に受け継がれたが、現在は小売に転業し、㈱プリズムとして4代目貴雄氏に引き継がれている。
(社長就任時のものと思われる内藤泰雄氏)
一方明治38年5月、中区末広町1丁目3番地に横江徳次郎氏が眼鏡・貴金属の卸商「末広屋」を開業した。しかし大正11年2月20日、45歳にして故人となる。初代徳次郎氏の跡は、長男の徳太郎氏が継ぎ亡き父の偉業を躍進させた。ところが太平洋戦争に際し、現役として出征、フィリピンで戦死した。その後父と兄の遺業を受け、次男の善隆氏が終戦後昭和21年5月に復員し経営を切り回し、同26年1月1日「横江眼鏡株式会社」に改称・改組するとともに、代表取締役に就任した。
(現在の横江眼鏡の地盤を確固たるものにした、若かりし頃の横江善隆氏)
横江眼鏡からは、多くの従業員が独立し、中部地区で次々と眼鏡卸業を開業していった。
永井利夫商店(名古屋)、片山幸吉商店(名古屋)、佐竹利三商店(岐阜)、佐藤杉男商店(豊橋。現有限会社佐藤眼鏡)などは、全てこの横江眼鏡からの出身で、独立後も競うことなく協調し合い、5社共同によるキャンペーンなども実施した。昭和26年末には、1ヶ月間温泉招待付き大特売を催し、多くの小売店に仕入れを促し、翌27年1月6、7日には、下呂温泉水明館に小売業者30余人を招待し、参加者らに喜ばれた。
河内屋、末広屋(現横江眼鏡株式会社)から少し遅れて、大正4年3月、中区流町に谷澤武男氏(当時27歳)が谷沢商店を開業。昭和18年1月10日に創業者の谷澤氏が故人となってからは、その遺業を妻のトミ子女史が受け継いだ。同20年戦災にあい、一時故郷の岡崎市篭田町に疎開したが、その後同24年3月中区大須門前町に進出し、同時に合資会社谷澤商店と組織を変更した。
 大正11年、中区末広町の杉浦万作商店へ入社した西尾市出身の牧新太郎氏は、昭和8年に独立。中区南小川町で眼鏡卸牧新商店を開業した。しかし、こちらも同20年の大空襲で全焼。その後同23年、東区手代町で再開した。創業者の新太郎氏が、同49年3月19日慢性肺気腫により、68才で永眠すると、その後長男の鐘三氏を中心に兄弟4人が跡を継ぎ現在に至る。(現在地には昭和55年11月1日に移転した。)
中部地区では最後発となる名古屋眼鏡は、昭和38年2月17日に創業された。
岐阜県多治見市の兼業店の3男として生まれた小林成行氏は、高校を卒業後、父親の勧めもあり、修行のため大阪の眼鏡卸商大前眼鏡に入社。百貨店や地方の有力眼鏡店を担当したことで幅広いノウハウを学ぶ。その後大前眼鏡から受けた20万円の退職金を元手に、名古屋・今池に2部屋と台所のアパートを借りて、名古屋眼鏡を1人で立ち上げた。
修行先の大前眼鏡は、名古屋には取引先が全くなく、文字通りゼロからのスタートだった。しかし高度成長期のまっただ中、朝から晩まで営業に明け暮れ、その後の地盤を確固たるものにした。特に他社に先駆けていち早く採り入れた、全国カタログ通販は、斬新な営業手法として各方面からの注目を集め、同社の大きな収益源となった。また2代目となる現社長小林成年氏も、早くからIT化を導入・推進。今では当たり前となった専用HPも、眼鏡卸では最も早く開設し、現在に至る。