中部眼鏡卸の黎明期
中部眼鏡卸協同組合の歴史を紐解くと、大正8年に結成された、「名古屋眼鏡卸組合」にまでさかのぼる。
太平洋戦争の勃発(大正3年)と、それ以降の好景気は、日本経済に飛躍的な発展をもたらした。全国的に商業活動が活発になり、それにともない眼鏡需要も日々拡大していった。
それまで名古屋には、眼鏡小売店は少なかったものの、次第に時計店が眼鏡の取り扱いを始めたことにより、その普及に弾みがつき、結果卸機能の活発化を促した。
当時は眼鏡のみを取り扱う、いわゆる現在のような眼鏡専門卸というものはなく、装飾品や貴金属製品、髪飾りなどを取り扱う卸業者が併行して眼鏡を扱ってた、という程度だった。ちなみに当時眼鏡を扱っていた卸商には河内屋、末広屋(現横江眼鏡)、杉浦万作商店、牧新太郎商店(現マキシン)、谷澤商店などが挙げられる。
「名古屋眼鏡卸組合」の結成へ
経済が右肩上がりに発展する時代を背景に、全国的に同業組合、準則組合の組織結成が進みました。眼鏡業界では東京、大阪で製造、販売、申し合わせ組合、親睦グループが次々に誕生していった。
そうした趨勢の中、名古屋地区でも同業者の連帯と協調の必要性から、小売業者が申し合わせ組合を、大正2年(1913年)に発足した。そして大正12年には加賀0太郎氏を初代組合長に「名古屋眼鏡商工組合」が結成された。
卸でも同じく、それまで卸業者同士の寄り合い的だったものから発展し、大正8年7社による申し合わせ組合として、「名古屋眼鏡卸組合」が結成され、初代組合長に加藤由次郎が就任した。
名古屋眼鏡卸組合は、加藤組合長を中心に全組合員一丸となって各種事業に積極的に取り組み、この地域の眼鏡普及に大きく貢献するとともに、現在の事業の基礎を築きました。